連載コラム 俺の話を聞けー! 杉本監督アー写
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Vol01. 『眩しい闇』  (2005年04月06日更新)

今年1月10日、“覗きのタメさん”が亡くなった。73歳だった。
タメさんのことは「自転車でいこう」の上映会で何度か話したことがある。僕が勝手に思っているだけだが、タメさんは一番年上の友人だった。
ずっと生活保護を受けてきた彼の葬儀は、住んでいた中野区の仕切りであっけなく済んだ。知らせるなという本人の意志に従って、外国で暮らす娘さんには何も知らせなかった。おそらく今でも何も知らないだろう。葬儀の後10人足らずのゆかりの人たちと近くの蕎麦屋で酒を飲んだ。ほとんどが飲み屋で顔を知った人たちだった。

20年位前、僕は新宿の飲み屋に足繁く通っていた。20代半ばの僕は昼間何もすることが無かった。まだ明るいというのに、歌舞伎町へ渡る横断歩道の端で街のネオンがともるのを待った。
夕方の街は、何かが始まる感じがしてドキドキした。
すっかりネオンがともると横断歩道を渡って狭苦しい飲み屋が連なる一角へ紛れ込んだ。お金が無いので、もう一杯飲もうかどうしようかいつも考えていたような気がする。
そうやって僕は何かが始まるのをじっと待っていた。いったい何が始まって欲しかったのか…それは多分何でもよかった。僕は何でもいい何かが始まるのを、誰ともろくに話さずただひたすら酒を飲みながら待っていた。

一番よく行ったのが「からす」という店だった。店主の“おかあさん”がツケなのに気持ちよく飲ませてくれるので甘えて通っていた。その「からす」で必ず顔を合わせる客が“覗きのタメさん”だった。八百屋のおやじが被っているような帽子、黒かグレーのジャンパー、黒かグレーのズボン。これが彼のいつも変わらない出で立ちだった。痩せていて、ぎょろりとした左眼。そして右目には眼帯をしていた。
「殴られて目がつぶれたんだ」
彼は眼帯をさしてそう言っていた。

覗き、という行為があることを僕はそれまで知らなかった。遅くやってきたタメさんが、あまりにも堂々とその晩の新宿西口公園での覗きについて語るので、おかあさんも他の客もついつい聞き入ってしまう。「男がだらしなくてヨ!」という言葉にゲラゲラと笑いが起こる。危なっかしい話が妙に明るく語られることが不思議でならなかった。
僕は何度か覗きに誘われた。しかし「公園の暗がりでただのモノと化しじっと動かない」という「覗き道」とでも言うべき話を聞かされ怖気づいた。僕は、何かを待っていたにも関わらずまったく優柔不断だった。「覗きの誘いを断わったからって気にすることはないさ」とタメさんに言われ、その替わりというわけでもないが、何度も聞かされた彼の生い立ちの話をまた聞くのだった。
朝鮮半島平譲生まれ。戦後九州に引き上げて父と死別。間もなく母親がタメさんと妹を残し失踪。二人は親戚の家でやっかいものとして育てられた…。
「俺の覗きのはじまりはここにある」
あるとき彼は言った。僕はそれを聞いて何故かホッとしたのを覚えている。今だから言えるが、覗きの動機が単純な欲望ではなく、タメさんの後ろに繋がっている人生のせいだと思ったからに違いない。覗きなんかをやるにはそうとう不幸な過去が必要なはずだ…こういう思い込みにタメさんの生い立ちはぴったりだった。そして僕はこの年上の友人を理解した気になった。
「タメさんの暗いエネルギーが覗きの動機なんだね」と知ったような口を聞いた僕を彼は眼帯の眼で睨んだ。
「バカ、世界の“本当”ってのは大抵暗闇の中にあるんだよ!最初の暗闇は母親の胎内だ。
俺はそんときから“本当”を知りたくて暗闇を覗いてきたんだ」
「“本当”って?」
「知るか。それがわかれば覗きなんてやらん…言っとくがお前、決してハキハキした
明るい青年になんかなるなよ。そうなったら暗闇が見えなくなるぞ」

…さっぱり意味がわからなかったが、そのときに僕は「とうとう始まった」と思った。ずっと待っていた何かが始まった気がしたのだ。
今から思えば、何を見て生きていくのかがそのとき決まったのだと思う。誰からも注目されないもの。埋もれているもの。見て見ぬ振りをされているもの。存在しないかのごとく扱われているもの。せつないもの。これが僕の覗くべき“暗闇”だった。

もちろん「自転車でいこう」はタメさんの覗きとは直接には関係無い。プーミョンのあの屈託の無さは暗闇なんかと無縁だろう。
しかし僕には聞こえてくる。本当にそうか、と聞くタメさんの声が。
今を生き易い人だけがこれからもますます生き易くなる…そんなふうに回り続けるこの国で、いかなるルサンチマンも無しに走り続けるプーミョンを「ハキハキした明るい青年」として見ていないだろうか?
ぼくはこれからプーミョンの中の暗闇に触れていくことになると思う。それは映像になるかどうかはわからないが、えらく眩しい闇のような気がする。



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