■この映画を製作した動機
面白い画集があると『筑豊炭鉱絵巻』を手渡されたのが山本作兵衛さんの絵画との出会いです。その画集には明治から昭和にかけて筑豊炭鉱の世界が繰り広げられていました。一目で素人画と分かる画風ですが、きわめて精緻に炭鉱(ヤマ)の生態が描かれており、何よりも私の心を捉えたのが、山本作兵衛さんが実際に明治から昭和にかけて筑豊の炭鉱で働いていたという事実でした。
『子や孫に自分が生きてきた世界を伝えたい』
その一心で描き続けた作兵衛さんの炭鉱絵画に登場する人々は、一様に逞しく、清冽で仲間への慈しみに満ちていました。そして、私が何よりも強く感じたのが『共に生きる』といった仲間たちの強い絆だったのです。その感情が映画への第一歩を踏み出させたのかもしれません。
■初監督作品から持ち続けてきたモチーフ
私の初監督作品『あらかわ』(1993)は、荒川の源流から東京湾まで、水問題を含めながら川と人との関係を見つめたものです。その中で、ダム建設で最後まで反対していた村人たちが登場してきます。公団と23年ぶりに妥結し下流へ集団移転していくのですが、彼らが口々にしていたのが『第二の故郷をつくろう』という言葉でした。
その言葉の真意を、私は次のように理解しています。
『私たちは、先祖代々受け継いできた『故郷』で、生まれた時から一緒に生きてきた大事な『仲間』です。移転によって私たちは故郷の土地を失うが、今まで築いてきた『絆』までも失いたくない。だからこそ、これからも第二の故郷で『共同体』として共に生きていきたいのです』
以来、私にとって『共に生きる』という精神は、潜在的なモチーフとして生き続けることになったのです。
そして、山本作兵衛さんの炭鉱絵画には、共同体の精神が濃厚に息づいており、私は彼の描いた世界から自分のモチーフを抽出して映画にしてみたいという気持ちが高まっていったのです。
■なぜ、今、炭鉱なのか
『なぜ、今、炭鉱の映画なのか』と、よく聞かれます。
しかし、私には、『なぜ、今まで炭鉱(ヤマ)の人々の暮らしを中心に据えた作品がなかったのか』という問いに、自分で応えたかったとしか言いようがありません。実は、その気持ちは筑豊を取材してより強くなっていったのです。
筑豊のどこにいっても、炭鉱で働いていた人達は次のように口を揃えて言いました。
『なぜ、暗い、怖い、貧しいといった部分ばかりを取り上げて、本当の炭鉱の世界や炭住の暮らしを描いてくれないのか』
『明治以来、ずっと日本を支えてきたのに、なぜ、閉山に至る部分だけをセンセーショナルに伝えるのか』
『何度も取材を受けたが、結果的に事故などの悲惨な部分ばかりしか伝えてくれない』
『炭鉱の世界は暗くもなく悲惨でもない、あるのは人情だ』
様々な炭鉱経験者から一様にうかがえるのは、ほとんどの人が、炭鉱で生きてきたことに誇りを持っていることと、長年住んでいた炭住が彼らにとって故郷だったことです。しかし、その誇りは不運にも傷つけられ、彼らの故郷を想いおこしてくれるような作品に巡り合うことができなかった。そうやって50年以上が経ってしまったのです。
■この作品がめざしたもの
私は、映画を製作するにあたって二つの糸を紡ぎました。
一つは、山本作兵衛さんの炭鉱絵画を組み立て、作兵衛さんの人生そのものをストーリーにすること。
もう一つは、石炭産業の終焉に立ち会った炭鉱関係者をドキュメント取材し、炭鉱(ヤマ)に生きた人々の体温や息づかいを紡ぐこと。
私は、この二つの糸を紡ぎ合わせれば、昔の人が大事にし、現代の多くの人が忘れてしまった人間社会本来の姿、『共に生きる』という精神を映し出すことができるのではないかと考えたのです。
ところで、映画の取材をしていると、時折、琴線にふれる言葉に遭遇するものですが、筑豊の地でお会いした古老は、自分の人生を振り返り、凜とした声で次のように言いました。
『アリのように小さな一生だったかもしれない。しかし、我が人生、一点の曇りもなく生きてきた』
この言葉が、私の映画の方向性を決定づけたといってもいいでしょう。
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